遊びを仕向ける
遊びは遊び場に限定されるべきではないと私は考えている。生物学者、心理学者、都市計画家らはみんな、より柔軟な思考パターンを発達させるためにも、居心地がよく暮らしやすい都市をつくり上げるためにも遊びが有益であることについて、たくさんの意見を持っている。「いい都市は、いいパーティーと同じだ。そこに来た人は、必要より長くとどまる」と書いたデンマークの建築家で都市デザインの専門家として知られるヤン・ゲールの言葉も有名だ。
普段は会話を交わすことのないような人も含め、さまざまな人が一緒に遊ぶように仕向けることは、私たちの都市の体験を遊びによって向上させる重要な方法のひとつだ。だから私は人目につかない建物の中ではなく、街の中に通りかかる人に発見されるよう考案された作品をつくるのが好きだ。
「適切」で安全と感じられる遊び
だが街の環境は複雑で、たくさんの不確定要素がある。現実世界の街で何かを試そうとした途端に、制御された空間で行われた実験ではまったく問題にならなかったようなことが起こる。そして、デザインがうまく機能するかどうかとは別に、人々の反応は、彼らが特定の空間でどのような気持ちになるかについて、いろいろなことを教えてくれる。同じものをさまざまな空間で試すうちに、人々がそれぞれの場所の社会的規範をどのようにして読み取っているかがわかってくる。そこで何ができるか、できないかについて、彼らは口では説明できないことを実演してくれるのだ。
社会のなかで暮らすとき、どこであろうとその場に「なじむ」ことが求められる。なじむことが何を意味するかは場所によって異なり、掟に従わぬ者はほかの人々にとって脅威となったり子どもっぽいと見られたりする。街の公共空間で人が遊びに没頭できるような環境をつくるためには、「これをすることがこの場所では適切であり、安全だ」と感じられるようにすることが必要だ。
東京の公共空間で遊びをつくり出すために地球を半周してきた私が事前にわかっていたことのひとつは、何が「適切」かについて英国で培われた自分の感覚は、ここ東京ではズレている、ということだった。「適切」という言葉が何を意味するかについて考えてみると、この空間が何のためにあるか、ここで歓迎されるのはどのような人で、ここにいるべきでないのはどのような人かについてたくさんの思い込みがあることが明らかになる。
そのため、公の場で遊ぶための新しいゲームのプロトタイプを考案する代わりに、さまざまな文脈における適切さを理解する方法を探すことにした。公共空間における遊びについての普遍的な真実を知りたいと思ったのだ。
私がつくったもの
日本には強い指導的文化があり、それは私が慣れ親しんできたものとは異なる道筋に沿って発展してきた。私が特に興味を持ったのは、道路工事だ。工事標識として旗を振る人間の姿を使うことは、英国では見られない習慣だ。日本の各地を旅しながら気づいたのは、生身の人間が立っていないところにはバーチャルな人間が使用されるほど、人間の姿かたちが重要視されているということだった。LEDスクリーンにアニメーションで旗を振る人間が表示されていたり、普通の看板に描かれた平面的な人間の姿でも腕が動く仕組みになっていたり、回転する旗を持ったマネキンを目にすることもあった。
東京の公共空間における適切さを理解する実験を決行するにあたり、ルールを知らないことが遊びに参加するかしないかの障壁とならないよう、日本の文化に根づいていて、みんなが遊び方を知っているシンプルなゲームはないかと探した。この目的に適っていたのが、ケンケンパ(英語の「ホップスコッチ」に相当する)だった。私はこれをアイデアのベースとして、街のあちこちの地面に設置できる(描ける)ようなゲームボードをデザインした。そしてパーベイシブ・メディア・スタジオのデヴィッド・ヘイロックの協力を得て、Raspberry Pi(ラズベリー パイ)に搭載された小さなゲームエンジンを使用し、LEDスクリーンに、さまざまなメッセージや人の姿をしたアニメーションを表示できるようにした。その目的は、この場所で遊ぶことは適切であり、これは自分が楽しめる遊びだともっとも多くの人に安心感を与えるきっかけは何かを明らかにすることだった。
このようにして私は9月下旬の特に雨の多い週に東京に到着し、「3331 Arts Chiyoda(アーツ千代田 3331)」を拠点にして、できるだけたくさんの遊びの実験を実行した。実験ができないほど雨が降っているとき(それは頻繁にあった)、私は街を歩き回り、子どもにとっても大人にとっても、この空間で遊ぶことは適切であると人々が感じさせるきっかけになっているものを探した。